昨日、僕の祖父が他界した。

僕は29日に帰省し、30日に顔を出したばかりだった。確かに元気とは言い難い様子だったが、まさかその次の日に死んでしまうとは。

30日から31日の朝にかけて、僕は地元の仲間たちと一緒にいた。31日の8時56分に母から電話で「おじいちゃんが病院に運ばれたから」と連絡が入った。すぐに帰途に着き、母親の車で病院へ。9時20分くらいか、病院に着いたのは。この時点では今までの発作と同じ程度だろうと思っていて、先に病院にきていた父の「心停止したが蘇生した」という言葉も大した意味を持たなかった。

手術室の前に親族が集まっていた。長椅子に座って、心臓マッサージでベッドがギシギシときしむ音を聞いていた。15分ほど座っていたがいたたまれなくなって外に出てタバコを一本吸ってみた。が、いつ呼ばれるか不安だったのですぐ院内に戻った。

9時55分に伯父が手術室に呼ばれた。伯父は祖母を呼んだ。祖母が叫ぶ声が聞こえた。皆がそこへ向かった。そこには既に生命維持装置を外された祖父の姿とそれにすがって叫ぶ祖母の姿があった。親族による人垣ができた。僕はそれ以上近づきたくなかった。泣いてしまいそうだったから。父が祖父に呼びかけていた。それで生き返るなら苦労しない、でも生き返るかもしれない。僕は声をかけようか迷っていた。でも、人垣が割れて祖父の顔を見たとき、手と口が動いていた。

「じいちゃん、俺、一日にまた会いに来るって言ったじゃんよ!!」

それからは涙が溢れてどうしようもなかった。ベッドから離れて唇をかんで耐えようとした。できなかった。声をあげて泣いた。自分が馬鹿じゃないかと思えるくらい、本当に泣いた。涙で水溜りができてもおかしくなかった。

ひとしきり泣いたあと、祖父の手を握りにベッドへ戻った。が、握ることができず、ベッドのパイプをつかんでまた泣いた。19年間の思い出がぐるぐると回った。

最後に祖父の手を握って心の中で祖父に誓った。

「俺はやるから。さすがじいちゃんの孫だと言わしめるくらいがんばるから。」

だから僕はもう泣かない。

祖父にはいろいろなことを学んだ。が、まだ学び足りなかった。書道も習ったし、日本刀が好きなのも祖父の影響だ。6人いる孫の中で僕を一番かわいがってくれた。期待してくれた。その分厳しかった。
和の心をもっていた祖父。
「文武両道」と書道のみならず、剣道、槍の演舞も修めた。

あなたの精神、この英央がしかと受継ぎました。

永遠の目標として「あなたを超える」ということを追い続けましょう。

今は亡き、僕が最も尊敬する祖父へこの文を贈ります。

平成13年1月1日 英央



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